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【Colorful Interview】走裕介ロングインタビュー デビュー15周年記念曲「篝火のひと」に込めた“ありがとう”の気持ち

走裕介が3月22日、デビュー15周年記念シングル「篝火のひと」をリリースする。走が長年憧れてきた松井五郎氏が作詞を、恩師・船村徹氏の子息である蔦将包氏が作曲・編曲を手がけたバラード曲。在りし日の思い人への“ありがとう”という曲のテーマは、これまで応援してくれたすべての人に対する走自身の気持ちと重なる。演歌歌手の枠には納まりきれない魅力を持つ走が、故郷の網走を離れ船村氏の内弟子として修行した10年間、そしてデビューしてからの15年間を改めて振り返り、「篝火のひと」に懸ける思いを話してくれた。

 

内弟子としてお世話になった10年間は、すべてが僕の財産

1999年7月5日。作曲家・船村徹に弟子入りした日のことは、いまでもすべて覚えています。とにかくもう、期待でいっぱいでした。僕が生まれ育った網走の最寄りは女満別空港で、そこから羽田まで飛んできました。ボーディング・ブリッジを通って、羽田に降り立った瞬間のあの蒸し暑さ。網走は肌寒かったので、「僕は、この暑さの中でも生きていけるだろうか」と、ちょっと心細くなって(笑)。羽田空港には、船村先生の当時のマネージャーが迎えに来ていて、そこから車で栃木県の日光にある先生の仕事場“楽想館(がくそうかん)”へ向かいました。

楽想館には、兄弟子の静太郎と天草二郎がいて、そこに僕が新弟子として入ることになったわけです。船村先生にお会いしたのが、ちょうど夕食の時間で、その日はハンバーグがメインでした。先生が「そろそろ始めてくれ」と言ったら、隣に座っていた天草がガス台を出してきて、先生の目の前でハンバーグを焼き始めたんです。弟子がご飯を作るんだということが初めてわかって、まるでシェフみたいな手際のよさに驚きました。僕は目玉焼きとカレーライスくらいは作れましたが、本格的なハンバーグを作ることなんか、考えたこともなかった。「僕もそのうち、これをやらなければならないのだろうか」と不安になりましたね(笑)。先生が食事を終えて休んだあと、僕らもそれをいただきました。手作りだし焼きたてだし、とにかくめちゃくちゃおいしくて、ここはレストランかと思ったほどです。あのハンバーグの味は忘れられません。

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僕は小学生のころからドラムを叩いていて、高校に入ってバンドを組み、ZIGGYの「GLORIA」などをカバーしていました。歌は、じつは高校2年生くらいまで、いっさい歌ったことがなかった。学園祭が近づいてきて、体育館のステージで練習するときに、同じクラスのボーカルが掃除当番で来られなかったことがあって。他のメンバーと「先に練習しようか、時間もねえし」と演奏しながら、コーラスのマイクで遊び半分で歌ってみたら、通りかかった体育の先生がそれを聴いて「おまえ、歌も歌ってみろよ」と言ってくれたんです。それがきっかけで、少しずつ歌うようになってボーカルを担当する別バンドも組んだのが歌への入口です。

高校を卒業してトラックに乗るようになってからは、トラックのラジオから流れる歌謡曲や演歌を聴くようになりました。演歌のコブシやビブラートもいいな、なんて思いながら、一緒に歌ったりしていましたね。

「日本縦断カラオケ道場」に出場したときは、佐藤浩市さん主演のドラマ『横浜心中』の主題歌だった山田晃士さんの「ひまわり」と、藤井フミヤさんの「Another Orion」を歌いました。本選は15人で、演歌を歌う人が何人もいましたが、皆さんお上手なんですよね。市川昭介先生がお見えになっていて、審査員も星野哲郎先生、伊藤雪彦先生、たかたかし先生、水木れいじ先生とそうそうたるメンバー。どちらかといえば演歌の先生ばかりじゃないですか。僕は2回とも演歌の人と対戦して、どっちも1点差で勝ち抜いて優勝しました。それでちょっと“これは歌い手になれるんじゃないか”と自信がついた。そこから、歌手になりたいという気持ちが大きくなっていきました。

その後、カラオケ大会が北見市であったときに、主催していた先生に僕の熱い思いを話したところ「そんなに歌手になりたいなら、船村徹という作曲家の先生が知り合いにいるから、歌を録音して送ってみるかい」と勧めてくださいました。歌を送ってみた結果、弟子にしていただけたのが1999年7月5日。そこから足かけ10年をかけて、2009年4年1日「流氷の駅」でデビューさせていただくことになりました。

★★★★

内弟子だった10年間、船村先生のレッスンは1回もありませんでした。「俺のところに来たからって歌い手になれると思ったら大間違いだからな」と言われました。「ここは寺子屋みたいなところ。君が歌い手になれなくても、どこかできちんと生きていけるように、俺が教育してやる。人間としてできていないヤツは歌い手にもなれないし、世の中に出てもやれることがない。歌の技術を学びたければうちでなくてもいい、他に行きなさい。歌は芸事だから、人がやっていることを自分で見て学んで、芸を盗みなさい」というのが先生の教えでした。

船村徹先生と弟子時代のひとコマ

僕は演歌の基礎ができてなくてコブシもまわらなかったので、とにかくたくさん歌を聴くことから始めました。先生が仕事に出かけてお留守のときや夜、天草に聴いてもらって「こんな感じですかね」とひたすら歌いました。静も天草も本当に親切で、本当にお世話になりました。実の兄弟よりも兄弟みたいな“あにき”ですね。いまでも仲良くさせていただいています。

 

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